安部昭恵氏がクレムリンにてプーチン氏を訪問したことが、突然報道された。とても驚いた。政府への事前の相談などなかったという。昨年12月にトランプ夫妻を訪問したことと言い、このように大国のトップに訪問できる民間人は、世界的にも稀有な存在だ。全て、故安倍元首相がいかに人間レベルで首脳外交に取り組んだかを示している。
2013年から安倍首相はロシアとの平和条約と北方領土問題の交渉を精力的に取り組んだ。2018年シンガポール合意では、「平和条約を締結したあと歯舞群島と色丹島を引き渡す」とまで報道され、期待が高まった。安倍首相は粘り強く交渉を重ねた。2016年には、故郷山口県の温泉にプーチン氏を招待し、ファーストネーム「ウラジミール」と呼んで、日本中にプーチン氏との関係性をアピールしていたことを思い出す。日露外交でここまで踏み込んだ取り組みは歴史上なかった。
しかし、その後の交渉は難航を続けたまま、2020年夏、安倍内閣は退陣。その後、2021年9月ウラジオストックでの東方経済フォーラムでプーチン氏は次のような発言をしている。以下はその一部だ。
・・・我々は目の前の現実を考慮に入れる必要がある。その一つは、我々が平和条約を議論する時、平和な未来の保障、即ち、ロシア国境近くへのミサイルシステムの配備はいうまでもなく、米軍の展開からもたらされる脅威への保障が不可欠である。我々はこれらの質問を日本側に伝えているが、まだ如何なる回答も得ていない。その意味でボールは日本側にある。・・・
出典: 笹川平和財団 畔蒜 泰助『岸田新政権の対ロシア外交を考える(前編)―安倍政権の日露関係とプーチンの対日シグナル』
プーチン氏の問いかけは、もっともに聞こえる。(しかも今から見れば、2022年ウクライナ侵攻開始の直前のことだ。米ロの緊張関係が高まっていたはず)この報道を耳にした時は、結局のところ、政権はこんな基本的な事柄についての内部検討なり米国との裏折衝もなく、これほどの努力を無駄に行っていたのか、・・・とがっかりしたものだ。稚拙な外交と揶揄される理由はあるだろう。
しかし、そうであっても、安倍氏の外交に対する取り組み姿勢については、いまのわれわれが敢えて学ぶべきことが大きいと感じる。従来の流れの中でボトムアップ的な、官僚同士の前打ち合わせで外交をドライブする局面ではないのだ。必要であれば、現状変更を伴うことであっても、政治判断で首脳クラスが新たな道を切り開いていくことが、いまの外交では必須なのだ。
安倍首相は、退任後のインタビューで「ロシアを中国側に追いやってはいけない」という考えもあったと述べている。戦略的には、極めて正しい論拠だ。できることなら、そのような考えも国民にぶつけ、何が現実的な優先なのかを決めることができていたら・・・と思う。
ここまで書くと誤解を招きそうなので記すが、筆者は親ロシア主義でも、安倍首相支持者でもない。様々な過去に関する遺恨はありながらも、現在の日本にとって大切なことの優先順位を再確認すべきだと考えているにすぎない。また、昨今の様々なナラティブやプロパガンダを鵜呑みに行動するのも、むしろ危険だと考える。
「プーチンは独裁者だ」と言いながらウクライナでの代理戦争を止めようとしない西側にただ同調していればよいのか?中国・北朝鮮・ロシアの共同軍事演習を見ながら日米安保だけにすがるのか、それともロシアだけは中和しておくのか?領土の帰属ではなく、墓参りや土地の利用権などで実質的に国境線を薄くするメリットがあるのではないか?例えば、こんな問いを改めて議論すべきだ。
プーチン氏は、故安倍首相の葬儀に出席できず、家族に直接弔意を伝えたいとかねてから言っていたそうだ。昭恵氏の訪問の受け入れと格段の厚遇は、それだけのためだろう。その一方でプーチン氏はかすかなシグナルも送っている。それは、こうした人間関係の存在についてだ。これをすかさず拾い受け止め、賢い外交を進めるリーダーが出てきてほしいものだ。