日本とウクライナ 終戦のタイミング

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 1945年8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下された。3日後の8月9日午前11時2分、長崎に投下。多くの命が失われた。日本は海の向こうの異国の地で戦争を始め、最後は本土を焦土とするまで戦うことになった。78年たった今日も祈りが続く。なぜこのような悲惨なことが起きたのか。戦争の終わり方の難しさを考えざるを得ない。

 歴史を振り返れば、日本は戦略的な大局観を欠いていた。1937年に始まった日中戦争で大きな判断ミスをした。初期段階で、ドイツに講和仲介を依頼したまでは良かった。しかし、中国側の返答内容が不服として、近衛内閣は「爾後国民政府ヲ対手トセズ」の政府声明を発表した。歴史に「もし」は禁物だが、この方針判断は、その後の日本一国の運命ばかりでなく、現在に至る世界秩序を大きく塗り替えたかもしれないほどの大きなものだった。

 対米宣戦布告の戦略性はどうだろうか?第一次大戦で無傷で、GDPは日本の数倍。ペリー来航で悟ったように、船で日本のどこにでもアクセスできる位置関係。大陸での戦闘と太平洋でのアメリカとの戦闘が並行する二正面を日本は自らわざわざ選択した。戦略的には、真珠湾を叩いた時点で日本勝利の確率は極めて低くなった。

 日本のもう一つの大きな岐路となったのは、ソ連との関係だ。1941年4月に日ソ中立条約を締結。(日本から見れば、東アジアに接する手強い相手を抑止できたので大陸を南進した。一方、前年にパリを陥落させていたヒットラーをさらに警戒したスターリンから見れば、極東の背後を固めておいたという動きである。)そして、中立条約の有効期間5年満了の1年前の1945年4月にソ連は条約の不延長を日本に通告。英米とソ連が手を組んだドイツ戦の大詰め、また、米軍18万人が沖縄に上陸開始したタイミングだった。中立の実質的破棄だと明確にとらえるべきだった。にも関わらず、日本は条約満了までソ連が中立を守ることを信じ、連合国との講和仲介役さえ期待し続けたことは有名だ。

 戦争当時に、日本のリーダー達に国際情勢がどの程度の精度で、どれくらいのタイミングで届いていたのか、詳細に知る由はない。おそらく、膨大な雑音や誤報もあったことだろう。また、海外諸国の歴史や文化・思想についての知識・情報も時代的な制約から限られていた。しかし、大きな戦略の誤りを重ね、劣勢が明らかになっても、いたずらに講和ないし降伏を遅らせたばかりに、結果として人類初の民間人に対する原爆投下につながっていった。

 今のウクライナはどうだろうか?ロシアのあの殺戮や破壊はどんな理由や背景があろうと正当化はできない。しかし、ロシアは国力でウクライナを遥かに凌駕している。しかも核保有国。ロシア侵攻が始まって間もない頃から様々な和平の仲介がなされてきた。GNV ウクライナ・ロシア戦争で見る和平報道で詳しくまとめられている。ムラがあるマスコミ報道では、われわれ素人がとうてい構成できない、価値ある情報だ。

 和平を妨害してきたのはアメリカだ。アメリカ人の民意とは関係のない、政権内のネオコンがこの戦争に乗じてロシア現政権の弱体化を目指していることが原因と考えられる。戦闘は膠着状態であり、時が経つほどロシアが有利になる。無論、エスカレーションのリスクも大きくなる。ウクライナに勝っては欲しいが、これ以上の犠牲や破壊も避けて欲しい。ウクライナは、外国を利用してまずは停戦を目指してほしい。日本だからこそ、日本も停戦や和平を唱え始める時期だ。

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