映画『オデュッセイア』を観た。人食い巨人も、怪物も、魔女も、聞いてはならぬ歌も、驚くほどあっさり流れる。海の冒険を期待すると、拍子抜けするかもしれない。だが、冥界の場面だけは違った。ここだけは、監督が正面から時間をかけて描いている。筆者には、この一場面が作品全体を救っているように思えた。
なぜ怪物たちを削り、死者の国を厚く描いたのか。この映画の主題が「冒険」ではなく「罪」にあるからだ。映画は、その罪をトロイの木馬に置く。偽りの贈り物で敵の信仰心を逆手にとって欺き、都市を焼いた一手を、「ゼウスの掟」――客人を厚くもてなし、客人は主を敬うという古代の秩序――を破る行いとして描く。
ただ、これはノーランの脚色と言えそうだ。ホメロスの原典では、木馬は戦場の謀(はかりごと)にすぎず、歓待の掟を破ったとは言いにくい。オデュッセウス自身に神罰が下るのは、別の場面だ。一つ目の巨人ポリュペモスの目を突き、逃げ際に自分の名を誇らしげに叫んだ。それでポセイドンの怒りを買う。さらに漂着の地で、部下が太陽神ヘリオスの牛を食らう。だから帰還は10年に延び、彼は部下を一人残らず失う。掟を破ったのは、トロイでの戦というより、旅の途中の傲慢と欲だった。ノーランは、この道程で散らばった過ちを、帰途につく前の木馬の一点に束ね、罪の源をひとつにした。うまい改変だが、原典の手触りとは少し違う。
原典に照らせば粗い。だが、ノーランの狙いは分かる。オデュッセウスは、自分の勝利がもたらした死者たちを背負っている。向き合うべき相手は、怪物ではなく、死者だ。だから冥界なのだ。
映画の冥界で、オデュッセウスが最初に対面する亡霊は、シノンだ。木馬作戦で浜辺に敗戦兵として一人置き去りにされた若い兵。彼は木馬が空だと信じ込んだまま、命がけで嘘を叫び、味方に欺かれたまま殺された。なぜ自分を死なせたのか、と問うシノンに、オデュッセウスは、お前が信じなければ計略は成らなかった、と答える。そしてシノンは、葬られぬまま放置された戦死者たちの怒りを告げる。冥界とは、勝者が自分の捨てた死者と、最初に向き合う場所だった。
ここは、賞罰の場ではない。死者は、生贄の血をすすって初めて口をきく。裁く神の玉座はなく、ただ、聞かれるのを待つ影がいる。この湿った薄暗い死者の国は、日本の黄泉に近い。神と人と冥界。三つの世界が地続きに層をなす感覚に、筆者は妙な親しみを覚えた。垂直に裁く天国と地獄より、ずっと日本人の肌になじむ。
映画の後半では、「海からやってくる略奪者」の影がつきまとい、英雄であるはずのギリシア勢こそ、その略奪者だったと反転していく。筆者は、そこにアメリカを思った。海から来て、交易路を押さえ、秩序を掲げつつ奪う――その顔は、ローマにも、スペインにも、オランダにも、イギリスにもあった。帝国が共通して持つ顔であって、特定の一国のものではない。今のアメリカがそう評されがちなのは確かだが、それも巡り合わせだろう。
映画の結末で、オデュッセウスは息子に国を譲り、王妃を連れて西へ船出する。原典にはない幕切れだ。ホメロス原典のオデュッセウスは、イタケに留まる。「もう一度、船出する」というイメージは、後世、『神曲』のダンテや『ユリシーズ』のテニスンが描いたものだ。ダンテは、神の定めた限界を越える傲慢として地獄に落とし、テニスンは、屈しない意志として讃えた。ノーランのオデュッセウスは、そのどちらでもない。自らの罪の意識にさいなまれ、息子の行く末を思って、国を離れる。ただ、赦されないから、留まれないのだ。
だが、原典のオデュッセウスが故郷に残るのは、赦されたからでも、罪を忘れたからでもない。そもそも、彼が抱えているのは「罪」ではないのかもしれない。「罰」と「救い」だ。神の掟を破り、神を侮り、10年の漂流という罰を骨身に刻んで思い知った。そして冥界で、死者の声に耳を傾ける。その言葉に従い、生き延びた。大きく言えば、神の言うことを聞いたから、助かったのだ。罰を受け、そして救われた。その二つをかみしめながら、彼は故郷の土に留まる。「罪」という内向きの言葉より、「罰と救い」――人と神のあいだの、厳しい取り引き。そのほうが、古代ギリシャの手触りに近い。
映画は、この古い感覚を、近代の「罪」と「赦されなさ」に置き換えた。内面の物語にしたのだ。ペネロペとの絆も、ノーランらしい情感で丁寧に描かれていた。それでも、彼を岸に繋ぎ止めることはできなかった。罪を負った者は、20年かけてやっと家に帰り着いてなお、家にいられない。だが、あの冥界で死者に耳を傾けた男の中に、罰を受け、救われて、なお留まる原典のオデュッセウスを、筆者は見た気もするのだ。
冒険譚を期待すれば、物足りない。古代ギリシャの匂いも薄い。だが、これは罪と、赦されなさの物語だ。そう観たとき、冥界の暗さだけが、長く残る。筆者にはそれでいい。
