「機関」としての英王室、「聖性」としての日本の皇室

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欧州の王室を眺めていると、その現実主義に目を見張ることがある。特にイギリスだ。彼らにとって王家とは、崇拝の対象である前に、国家を安定稼働させるための「機関」と言えるだろう。

イギリスは、王家の男系が途絶えるたびに、看板を掛け替えてきた。ノルマンからプランタジネット、チューダー、ステュアート、あるいはハノーヴァー、直近ではウィンザーへ。血が途絶えそうになれば、外から別の血を「接ぎ木」して大樹を生きながらえさせる。それは同じ欧州王族という共通のネットワークのなかで、家名を変えているだけという割り切りと受け止めることはできる。だが、日本人としてはモヤっと感じる面もあるだろう。

この割り切りを支えるのは、約900年におよぶ議会と妥協の歴史である。12世紀のマグナ・カルタに始まり、議会は王の権力を少しずつ削り取ってきた。失敗すれば首をはねられ、あるいは追放される。イギリスの王とは、世俗の最高権力者であり、軍事指揮官だった。だからこそ、システムを存続させるためのルール変更は、いつでも制度のアップデートとして実行される。ヘンリー8世が国教会を立ち上げて、宗教すら統治のツールとしたのも、かつてカトリック強国の脅威から独立を守るための国家戦略だった。それが2013年、欧州の安全保障環境の変化と近代的な人権意識の高まりを受け、カトリック教徒との婚姻制限をあっさりと撤廃した。柔軟な現実主義的な時代適応である。

ひるがえって、日本の皇室はどうか。ここにはイギリス流の機能主義とは全く異なる、強固な伝統が横たわっている。

日本の天皇は、中世以降の長きにわたり、世俗の生々しい「武力」や「課税権」から一定の距離を置いてきた。実際の統治は、征夷大将軍という武家政権に一任してきたのである。この「権力と権威の分離」という絶妙な二重構造こそが、日本らしい知恵ではなかろうか。天皇は世俗の政治から超越していたがゆえに、失敗によって引きずり降ろされる理由そのものを、そもそも持たなかったのだ。

そして、この世俗から隔離された「聖性」を守るための防壁こそが「男系男子」というルールだった。これには2つの背景がある。

第1に、天皇の本質が「祭祀王(さいしおう)」である点だ。天皇の最も重要な任務は、新嘗祭をはじめとする神事であり、皇祖神(天照大神)の神霊を自らの身体に宿し、国家の安寧を祈ることにある。古代の日本において、この「神霊を依り代(身体)に受け継ぐ」ためのパスポートが、父から子へと流れる「男系の血」だと信じられた。Y染色体という科学的概念が生まれる遥か昔から、日本人は男系の血筋にのみ宿る「目に見えない伝統の聖性」を共有していた。女系への移行は、先人たちにとって単なる跡継ぎの変更ではなく、神との接点が断たれることを意味したはずだ。

第2に、「天皇の権威を、誰の承認からも解放するため」という政治的知恵だ。もし女系天皇(=天皇の娘が一般男性、あるいは他国の王族と結婚して生まれた子)を認めると、とたんに「天皇の父親(外戚)」という、天皇より権威があるとも取られかねない、世俗的存在が生まれてしまう。古代から中世へ移るはざまには、藤原氏や平氏がこぞって娘を天皇に嫁がせ、外祖父として権威・権力を握ろうとした摂関政治などの一幕もあった。

こうした歴史の荒波を経験するなかで、男系という一本の細いレールだけは、誰の手によっても書き換えることができない「自動防御装置」として機能し続けた。もし「女系の婿」を認めてしまえば、皇位はその時々の有力政治家や新興勢力の「家」に乗っ取られ、世俗の権力闘争の渦中に沈んでしまうリスクがある。誰もコントロールできない「人知を超えた血の偶然」に正統性を委ねることで、皇室は不可侵の権威を保ち続けた。システムデザインとして、実によくできている。

2026年現在、国会では皇族数確保のための皇室典範改正案の審議が進んでおり、今国会中に成立する公算が大きくなっている。しかし、今回の改正案は女性皇族の身分保持や旧宮家の男系男子の養子縁組を可能にする内容にとどまり、「女系天皇」の議論は先送りされた。これに対し、リベラルな論客からは不満の声が漏れる。

彼らが展開する女系容認論は、一見合理的かもしれない。ジェンダー平等は現代の国際基準であり、男子のみに資格を限るのは時代遅れだという「べき論」。あるいは、何百年も前に分かれた遠い傍系を連れてくるよりも、目の前にいる天皇の直系長子を優先する方が国民の親近感に馴染むという「自然さ」。これらは、天皇を国家「機関」としてとらえている。

だが、私たちが「平等論」や「直系優先の自然さ」と呼んでいるものは、たかだか戦後80年の間に西洋から学び、内面化した「にわか仕込みのレンズ」に過ぎないのではないか。

男女平等という理念そのものを否定するつもりはない。しかし、それはあくまで社会生活上の規範であって、自然界のすべての非対称性を平準化できるわけではない。男子が子を産めないという生物学的役割の違いがあるように、歴史が紡いできた文化的な差異もまた、一瞬でフラットにできるものではないのだ。

次に「直系優先の自然さ」という感覚だ。これは現代の一般的な家族観を皇室にスライドさせた、多分に主観的な感覚に過ぎないとされても仕方あるまい。多くの日本人が、「女系天皇」に対して、言葉にしがたい違和感を抱く。その違和感の正体は、この伝統や歴史からの不連続性にある。

歴史的に、皇室は民間から女性(嫁)を迎えることはあっても、民間から男性(婿)を迎えて皇位を継がせたことは一度もない。民間女性が皇室に入る時、主に彼女たちは皇室という領域に同化することを求められた。これは一方向の「聖による俗の吸収」である。

しかし、女系天皇はそのベクトルが真逆になる。民間の男性(俗)が女性皇族を娶り、その間に生まれた子が天皇になるということは、どれほど取り繕っても、「俗なる家系が、聖なる皇統を上書きする」ことを意味する。その子は「天皇の娘の子」であると同時に、「民間の〇〇さんの家の子」という属性を帯びてしまう。あの藤原氏すらやらなかったことが、合法的に達成されてしまうことへの拒絶反応。これこそが、違和感の根源にある正体だと思われる。

西洋の近代思想をそのまま皇室に当てはめることの危うさを、明治の先人たちも熟知していた。

大日本帝国憲法を創った伊藤博文らは、天皇の権威を議会の上位に置くため、外見としてはプロイセンの君主権優位の制度を模倣した。しかし、伊藤らは内閣制度を創設し、首相が各省を統括、議会に対して責任を負うという、きわめてイギリス流に近いシステムにした。

彼らは「外見のドイツ」によって天皇の不可侵性を法的に守りつつ、「中身のイギリス」によって政治の失敗の責任をすべて内閣という世俗の機関に背負わせた。天皇を政治闘争から遠ざけ、保護するための知恵として、イギリスのシステムの一部を密輸入したのである。

筆者の推測ではあるが、伊藤は単に西洋の制度を器用に折衷しただけではない。彼は、かつて鎌倉から江戸の武家政権が担った「世俗の政治責任を負う身代わり(内閣)」を作ることで、連綿と続いてきた「権力と権威の分離」という天皇の在り方を、無意識のうちに帝国憲法に実装していたのではないか。近代西欧の器を組み合わせながら、日本的伝統を帝国憲法に実装したのではないかと思える。

だとすれば、現代の我々が直面している課題への向き合い方も自ずと見えてくるはずだ。「将来、皇位継承者が立ち行かなくなる」という危機感も、多分に時間を無視した議論だ。現在、皇位継承順位第二位には悠仁親王殿下が控えており、今すぐシステムが崩壊するわけではない。時間を稼ぎ、男系を繋ぐ努力をするための選択肢は残されている。

いま目を向けるべきは、1947年の敗戦直後と占領下という極端な状況で、GHQの指令によって皇籍を離脱させられた「旧宮家(旧皇族)」の存在だ。アメリカ側が戦前否定のナラティブを構築し、皇室の弱体化を狙って行った措置を金科玉条のように守り続ける必要がどこにあるのだろうか。

歴史を振り返れば、室町時代、称光天皇の崩御によって直系の男系男子が途絶えた際、朝廷は世襲親王家である伏見宮家から後花園天皇を「猶子(養子)」として迎えることで、皇統を繋ぎ止めた。この時、朝廷は決して「女帝を立ててその婿に皇位を委ねる」という女系への道を選ばなかった。どれほど血が離れていようとも、男系男子という一本のレールを死守したのだ。

いま私たちがなすべきことは、ジェンダー平等などの現代の物差だけで古代からの伝統を切り刻むことではない。明治の先人たちがそうしたように、日本の伝統的な流れを保つために、制度を使いこなすことだ。戦前まで機能していた「旧宮家からの猶子(養子)の選択肢」というバックアップシステムを復活させ、男系を繋ぐための歴史的努力を尽くすことこそが、最も正統な道と言える。

イギリスの王室が、900年かけて培った「機関としての世俗性」で生き残ってきたように、日本の皇室は、長きにわたり守り抜いた「理屈を超えた歴史的な聖性」によって生き残ってきた。その本質を履き違えたままのアップデートは、システムを脅かすどころか、その存在意義そのものを消してしまう行為になりかねない。歴史のタイムラインを明治以来の百数十年から、さらにその先へと引き延ばしたとき、私たちが守るべきものの輪郭が、ようやく冷徹に見えてくるはずだ。

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