前稿では「米中の急所を握れるか」という問いを立てた。かつて日本には、そういうレベルの国家戦略思考が確かにあった。1905年という年がその頂点であり、同時に最初のほころびでもあった。

日露戦争に至るまでの明治政府の外交には、今でも通用するレベルの戦略的な自律性があった。脅威の認識が明確だった。ロシアの南下という具体的な軸が、外交・軍事・情報を一本に束ねていた。手段も多様だった。日英同盟・外債調達・桂タフト協定・ポーツマス講和交渉——軍事だけでなく外交・金融・情報を組み合わせた複合的な戦略運用だ。現実認識も正確だった。国力の限界を冷静に計算し、日本海海戦勝利という最良の瞬間に講和を求めた。そしてそれを担う横断的な人材がいた。伊藤博文・山縣有朋・小村寿太郎・高橋是清・金子堅太郎——分野を超えて動ける人間が官民に存在した。
ところがその頂点と同じ年に、最初のほころびが生じる。ポーツマス条約調印(9月)の翌月、桂・ハリマン協定が破棄された(10月)。
アメリカの仲介は「善意の中立」ではなかった。セオドア・ルーズベルトは「日本はアメリカのために戦っている」と公言し、銀行家シフと鉄道王ハリマンが外債を引き受けた。日露戦争はアメリカの資金と外交的後押しなしには成立しなかった戦争だ。その「投資家」が具体的なリターンを求めてきた——それがハリマンの来日だった。桂・井上・渋沢らはその文脈を理解し、仮協定を結んだ。
しかし講和交渉から帰国した小村寿太郎が強硬に反対し、一方的に仮協定を破棄した。ハリマンを乗せた船がサンフランシスコに着いた瞬間に、破棄を通告するという外交的に粗雑なやり方で。
これは単に仲介の「お礼をしなかった」という話ではない。問題の本質は二つある。第一に、アメリカの動機の読み違いだ。ハリマンの提案は「中国市場へのアクセス」というアメリカの国家的な通奏低音の一部だった。個人的な商売の話ではない。それを民間企業人との交渉として処理した認識の浅さがあった。第二に、同盟関係の設計思想の欠如だ。日英同盟の時代には「同盟を能動的に設計・運用する」発想があった。しかし小村の判断には、アメリカを長期的なパートナーとして取り込む視点がなかった。
なお、破棄された協定の原文には、戦時には満鉄を日本政府の命令下に置くという条項が明記されている。ハリマン側も日本の軍事的権益をある程度担保する設計を受け入れていた。それでも拒否した。外交評論家の岡崎久彦はこう論じている。「三十年後、日本のツキが落ちたあと、第二次大戦となって実現された」と。
その後の日本の国家戦略思考は、次々と劣化の段階を踏んでいった。
1915年 二十一カ条の要求 = 中国への過剰要求で国際的孤立を招いた
1931年 満州事変の追認 = 「暴走しても追認される」ガバナンス違反の悪しき前例
1937年 盧溝橋事件以降の日中戦争 = 不拡大命令はあったが、止められなかった
1938年 近衛内閣「国民政府を対手とせず」 = 外交の窓を自ら閉じた
1940年 日独伊三国同盟 = 世界情勢を見誤り、同盟管理の完全な失敗だった
皮肉なことに、非西欧国として初めて帝国主義列強と肩を並べるに至ったという日本の戦略的達成は、この頂点を境に劣化の一途をたどった。1905年という年は、日本外交の頂点であると同時に、その終わりの始まりだった。
