英語学習:英語という水の中で泳ぐこと

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小学校の英語必修化についての東洋経済オンラインの記事を読んだ。「小学校で英語必修化→学力の格差拡大が深刻…英語嫌いだった夏目漱石に学ぶ、現代の「迷走する早期教育」への処方箋」英語嫌いだった夏目漱石を引きながら、現代の早期教育の迷走を論じている。

興味深く読んだのだが、いま一つピンと来ないところがあった。しばらく考えて、理由が分かった。漱石が語っているのは高等教育の話なのだ。大学で英文学を講じる立場から、学生の語学力の低下を論じている。一方、記事が扱うのは小学生である。同じ「英語教育」という言葉で、まるで別のものを比べている。それで読みにくかった。

小学校で成果が上がりにくいこと自体は、まあそうだろうと思う。母語がまだ固まりきらない時期に、専門ではない教師が週に一、二コマ教える。それで英語運用能力がつくと考えるほうに無理がある。バルセロナで行われた大規模な調査でも、教室で早く始めた組に優位は見つからなかったという。

ただ、筆者が書きたいのは、もう少し手前の話である。そもそも語学の力とは、何をどうやって身につけるものなのか。

体を使うということ

語学の「学習」というと、机に向かう姿が浮かぶ。単語帳、問題集、参考書。どこか座学のイメージがある。

だが考えてみれば、そうではない。目と脳で読み、口と脳で話し、耳と脳で聴き、手と脳で書く。要するに、体を使うことだ。

英語という水の中で、自在に泳げるようになること。そう捉え直すと、いろいろなことがすっきり見えてくる。頭で理解することと、体でやってみて上手くなること。この両方が要る。泳法の解説をいくら読んでも泳げるようにはならないし、我流で水をかいているだけでも速くはならない。

そして「読む・書く・話す・聞く」は、思う以上に互いを助ける。どれか一つが伸びると、他の3つにも効いてくる。どこから始めてもいい。学生時代に、スパイラル効果とかいう言い方を聞いた覚えがある。

回路を作る

語学の能力は、脳に回路を作るようなものだと思っている。

パソコンにソフトを入れるのとは違う。あらかじめ用意されたプログラムを一気に読み込むわけではない。言語の体験と学習を通じて神経に刺激を与え、回路を太くし、広げていく。特に話すことと聴くことは、口と耳をそれぞれ脳につなぐ回路がいる。

だから時間がかかる。地味に。筋トレに似ているのかもしれない。

母語のことを考えると、そのことがよく分かる。誰しも母語を「話す・聞く」から先に身につける。文字を覚えるより先に喋っている。これは考えてみるとかなり不思議なことだ。諸説あるようだが、ともかく4、5歳頃までの言語環境が、基本的な母語能力の、特に発音の基盤を作るらしい。

量の壁

仮に生まれてから18歳になるまで、1日の覚醒時間をおよそ3分の2と見る。365日 × 24時間 × 2/3 × 18年で、10万5120時間。

一方、外国語として英語を学ぶ人が、1日も欠かさず3時間、6年間続けたとする。3時間 × 365日 × 6年で、6570時間。母語の体験時間のわずか6.25パーセントである。しかも毎日3時間を6年間というのは、なかなかの話だ。

この数字を出すと悲観的に響くかもしれないが、筆者はむしろ逆に読んでいる。6パーセント余りでも、実用の水準には十分に届く。ただし、量が要ることは動かない。

漱石も同じことを言っている。「英語を修むる青年は、ある程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山読むがよい」「要するに英語を学ぶものは日本人がちょうど国語を学ぶような状態に自然的慣習によってやるがよい。すなわち、幾遍となく繰返しするがよい」。

母語を覚えたときと同じようにやれ、ということだ。つまり量と反復である。100年以上前の文章だが、言っていることは古びていない。

発音のこと

英語がとても上手い日本人の上司が、2人いた。どちらもアメリカ人女性と結婚している。どちらも文法的に正確で、流暢で、おそらく大卒の平均的なネイティブより、よほどうまく英語を使えた。それでも、母音と子音の発音を突き詰めれば、普通の人には区別しにくいかもしれないが、やはり日本人だなと感じることがあった。

幼少期に現地の子供たちに交じって育った帰国子女は別だ。この場合は発音がネイティブそのもので、かえって日本語のほうが少々おかしいことが多い。何かを得れば、何かは手放している。

つまり、あるレベルから上の発音は、大人になってからではまず手に入らない。そしてここが大事なのだが、手に入らなくても困らない。あの2人の上司は、日本人的アクセントをごくわずかに残しながら、立派に仕事をしていた。

AI学習は何を短縮するか

最近のAIを使った学習アプリやカリキュラムは、よくできている。昔と比べれば、効率は格段に上がっているだろう。適切な教材を探す手間、添削してくれる相手を見つける手間、会話練習の機会を作る手間。かつては英会話学校に通うしかなかったことが、深夜でも一人でできる。

では、学習効率は2倍になるか。

ならないと思う。AIが短縮するのは、探す時間と待つ時間である。体を動かす時間ではない。口を動かし、耳を澄まし、目で追い、手で書く。回路は反復でしか太くならない。そして語学に要する総時間の大半は、この体を動かす時間が占めている。

これはAIを否定する話ではなく、期待値の話である。「AIがあるから昔ほど大変ではない」は、4,50年前と比べれば200%正しい。しかし、AI学習だけで流暢になるわけではない。

どのレベルを目指すか

ここまで量の話をしてきたが、どれだけの時間を投じるかは、何をしたいかで決まる。

道を尋ねられて答える。バイト先で外国人客に対応する。旅行先で困らない。この程度なら、学校教育の英語で十分に届く。そして多くの人にとって、実用上はこれで足りる。

だが、海外の大学院で講義を聴いて議論に加わる、取引先と条件を詰める、外国人の上司や部下や同僚と同じ組織で日々を送る。これは別の話になる。

この2つの間には、明確な段差がある。前者は定型のやりとりで済む。後者は、相手の含意を読み、こちらの立場を調整しながら伝え、言葉の背後にある文化や思考の癖まで踏まえる必要がある。量が足りないのではなく、種類が違う。

そして後者に行くには、相応の学習と訓練を重ねるしかない。近道はない。

二つの驚き

外国の人と本気で話していると、二度驚くことになる。

一度目は、違いに。言葉は文化や習慣の一部だから、前提が違う、話の運び方が違う、何を失礼と感じるかが違う。訳せているのに伝わらない場面がある。時として呆然とする。

二度目は、近さに。それだけ違うのに、人の心や気持ちは言葉を超えて、驚くほど近い。というより、ほとんど同じである。誇り、不満、不安、認めてほしいという気持ち。ここは隔たっていない。

筆者は、この人間同士の違い・隔たりと近さ・親近感が隣接していることが、以前からとても興味深く、面白く感じている。

どのように学習・訓練を重ねるか

以上を踏まえて、自分なりに大事だと思う点を挙げておく。段階や目的によって時間の配分は変わるが、骨格はこのあたりだろう。

1、リーダーとグラマー。 日本の高校3年までの課程を、高校1年までに一通り済ませる。土台は早めに固めて、あとは英語運用に時間を回す。

2、二通りのヒアリング。 一つは「詳しく、何度も、聴き取れるまで聴く」。標準的な発音のコンテンツ、たとえばニュースを、耳で聴いて書き取る。何度も聴いて全部書き取る。最初は聴き取れないところが多いが、推測しながら答えを出し、スクリプトで答え合わせをする。もう一つは「聞き流し」。好きな話題のポッドキャストを隙間時間に聴き、英語音声の脳内通過総量をとにかく稼ぐ。精度と総量は別の訓練だ。

3、標準的な口語テキストの暗唱。 これは外せない。単語や文法を組み立てて話すのではなく、塊で出てくる状態を作る。声に出して覚えた音は、聴き取れるようになる。2とも互いに効く。

4、ネイティブスピーカーとの会話とメールを、とことん行う。 AIを使った練習も足しにはなる。だが最終的には人と人のやりとりである。どんなニュアンスで、どんな気持ちで言っているのか。その理解がとても大切になる。最初は思わぬ勘違いや行き違いも出るだろう。そこから学ぶことで、コミュニケーションの力が育つ。

1から3は一人でできる。4は相手が要る。

シカゴ訛りの日本人

北米を担当していた頃、累積で30州、百数十の代理店を訪ねた。

イリノイ州の、夫婦で経営している代理店に伺ったときのこと。奥さんが私に向かって言った。「あら、あなたの英語はシカゴアクセントだわ。ねえ、あなた、そう思わない?」とご主人に振る。

褒めてくれたのだろうとは思った。それで、こう答えた。「自分は日本生まれの日本育ちです。日本の教育では、標準的な米語はシカゴアクセントだと聞いたことがあります」。訛りの話で笑い合っていた。日本生まれ日本育ちの人間の英語に、訛りの出身地がある。可笑しな話だ。

ミシシッピ州の代理店では、逆のことが起きた。ご主人が何度も「ヨー、ヨー」と言う。最初はまるで分からなかった。しばらくして、南部訛りの「You」だと分かった。英語で最も基本的な単語である。綴りも意味も知っている。自分でも発音できる。それが聴き取れない。教材の音には幅がないのだと、このとき思い知った。

話してもらうために

「日本からあなたの話を聞きに来た」。そう言うと、皆、真剣に話してくれた。いいことも悪いことも。いろんな言葉で、いろんなアクセントで。それができることが目的なのだと思う。英語ができるようになることが目的ではない。相手が本当のことを話してくれる。しかも、当たり障りのないことではなく、悪いことも含めて。そこに行き着くための手段として、量があり、訓練がある。

「You」が聴き取れないところから始まって、本音を聞くところまで行く。あの数年は、そういう時間だった。 近道はないが、行けないわけでもない。着々と練習を積むしかない。

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