筆者が子供の頃、両親は戦時中の食糧難を何度も語った。乏しい米を芋や麦でかさ増しし、山野の草木や生物で食べられるものは何でも口にした。伯父の一人は、学校の卒業式が終わったあと、帰宅せず、駅で祖母から荷物を受け取り、そのまま列車に乗り、山形から川崎の軍需工場へ向かった。もう一人の伯父は義勇軍に志願し、満州へ渡ったらしい。こうした生々しい体験談を口伝で、筆者は受け取ることはできた。だが、他の誰かにさらに伝えるには、こうして文字で書くしかない。
終戦から81年。8月15日が今年もまた巡ってくる。式典があり、テレビの特番がある。戦没者を悼み、平和を願う。毎年この日、われわれは失ったものの目録を正しく整理できているだろうか、とふと疑問を感じた。
失った一つ目は、祖国を思い、出征して還らなかった兵士の命。二つ目は、全国六十余の都市に百万発を超えて降り注いだ焼夷弾と、二発の原爆とで消えた庶民の命。誰もが挙げる。挙げて当然だ。でも失ったのはそれだけだろうか。ここから先がうまく言葉にならない。
夏目漱石の『三四郎』に、忘れがたい場面がある。明治40年、日露戦争に勝って「一等国」と浮かれる日本社会。熊本から上京する汽車で乗り合わせた広田先生が、こう言い放つ。「滅びるね」。ロンドン留学で西洋の底力を間近に見た漱石の冷や水である。ただし、彼の慧眼は軍事的敗北の予言ではない。もっと深い。内から湧いたのではなく、外から押されて走る明治維新以降の日本の近代。列強に追いつこうと、中身を消化しないまま体裁だけを繕う。慶応3年 (1967年) 生まれの漱石は。それを「上滑り」と呼び、「外発的開化」と名づけた。その危うさを半世紀早く見抜いていた。
失ったもの三つ目。植民地化への抵抗と、独立を保てるかという危機感の記憶である。アヘン戦争で列強の意のままになった清。次々と植民地にされたアジア諸国。日本も同じようになりうるという恐怖こそ、明治のエリートたちをつき動かした根っこだった。東京裁判に証人として立った石原莞爾は、戦争責任を日露戦争まで遡ると言われ、「ならばペリーを連れてこい」と返したと伝えられる。日本の近代は、ペリーの黒船来航から始まった。西洋に呑み込まれまいとする、必死の応答として。石原の啖呵は、その出発点の正鵠を射ている。だが、今のわれわれは、先人たちのそうした気持ちがかつてあったことすら、あまりよく伝えられてはいない。
失ったもの四つ目。西欧との圧倒的な格差を承知しながら、なお戦争へ進んだ、あの葛藤と苦悩の記憶だ。山本五十六は駐米武官としてハーバードに学び、米国の工業力と石油産業を実地に調べ尽くしていた。対米戦は無謀の極みと結論し、英米と対立する道につながる三国同盟には、身の危険をおかして反対した。右翼に命を狙われ、海上勤務へ逃された時期さえある。近衛首相に見通しを問われて、山本はこう答えたという。「初め半年か一年は随分暴れてご覧に入れる。しかし二年三年となれば、全く確信は持てぬ」。山本には見えていた。誰よりも精確に。それでも、国家は止まらなかった。自らの明晰と時代の流れの板挟みの中の悲劇だった。
そして、先が見えた者は皆、隅へ追われた。広田先生いわく、熊本でうかつに「滅びる」などと口にすれば、殴られ、悪くすると国賊扱いにされる。漱石も、山本も、石原も、それぞれのかたちで脇へ押しやられた。日本は戦前から、自前の明晰を「非国民」と烙印し、舞台の外へ運び出す傾向を持っていたと言えそうだ。
戦後、この込み入った真実は、一語で塗り潰された。「軍国主義」というレッテルだ。無垢な被害者である一般民衆か、それとも狂信的な権力・軍部集団か——用意されたのは、二つの分類だけだ。「軍国主義」という語自体は、19世紀プロイセンに発する古い言葉だそうだ。ポツダム宣言に明記され、GHQの占領政策を通じて日本に貼られた言葉となった。
「軍国主義」一語で戦前・戦中を塗り潰す——それは比喩ではない。実際に、GHQの具体的な手続きで進められた。焚書、検閲、そして言い換え。学校で使われた読本や大川周明、徳富蘇峰などの著作は徹底的に没収された。GHQは「大東亜戦争」を禁じ、「太平洋戦争」と言い換えさせた。原爆・放射線被害の惨状や空襲による民間人被害を検閲で伏せた。また、「敗戦」を「終戦」に、「占領軍」を「進駐軍」にと、日本人が自主的に呼び替えた言葉もあったらしい。
こうした作業を担ったのは占領軍兵士ではない。英語のできる日本人たち、延べ一万人ともいう。ここでも、漱石の「上滑り」が起きている。外から一気に輸入ないし考案された、日本の近代化のための言葉は、根を張る前に使われ、身についていない。だから丸ごと差し替えられても、抵抗する足場がない。このある種の漂白されやすさは、外発の近代を駆け足で選んだ代償であり、また同時に日本の癖でもあった。
そして、その漂白された言説は、さらにその枝葉を伸ばしながら、現代を彷徨っているように見えることがある。皇室に関する議論然り、憲法に関する議論然り、選択的夫婦別姓の議論然り。賛否や議論の存在はよい。ただ、あたかも西欧の価値基準ばかりで評して、きょとんとしている日本人を見ると、何かなんとも言い表せない違和感におそわれる。これはこれで、新しいタイプの「上滑り」なのであろう。ただ、漂白された地表に葉っぱが茂っているだけで、本当の根は張ってはいない。なので、これからも移ろい続けることだろう。戦前・戦中は「軍国主義」と言う言葉で括り、あるいは一様に「古い」として、丸ごと消す。こうした、ほぼ無意識に近い「上滑り」と同居したまま、われわれは81年間を過ごした。
だから8月15日に本当に悼むべきは、失われた命だけではない。危機感の記憶。葛藤の記憶。功罪はともかく様々に日本の行先が見えていた者たちがいた、という記憶。そして今、失ったことにすら気づけない——その不在こそが、いちばん深い喪失ではないか。
かく言う筆者が学校教育を受けたのは、1970年代~1980年代だ。すっかり漂白された後の教育指導要領で教育された。親たちのように、日本の神話は良く知らず、いまさら本で読んだ。歴代天皇の名前を暗記したこともない。日本史の授業でも、そもそも近現代はたいした時間が割かれず、授業を聞いても、何とも言えず、どこか腹落ちしていなかった。そして、60代になって今、何故そうだったかが、はっきり理解できて来た。
いまさら、この年になって。知らないままよりは、わかっていたいものだ。おそらく、自分が日本人であるという実感が、年を追うごとに強くなっているからに違いない。
若い人たちはスマホに釘付け。日本だろうと、地球の裏側だろうと、目に映るのは同じ画面だろう。インバウンドは歓迎する。しかし雑踏では、大きなスーツケースを転がす一団を、こちらが慌てて避ける。ここは一体どこの国か。ふと、そんな心持ちになる。
「滅びるね。」 広田先生のあの声が、今もどこかで聞こえる気がする。
