「開戦前夜」の、その前夜

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映画『開戦前夜』は、よくできている。必敗という研究結果が机上にありながら、世の中の空気と言論統制のなかで、国家が坂を転げ落ちる。東条の苦悩もわずかに滲む。だが観客の胸に残るのは、たぶんこうだ。――結局、不条理な決定で戦争は始まった、と。

しかし、そこには一つ抜けていることがある。あの時点で、日本が客観的に見て、すでにどれほど追い込まれていたか。映画はそれを描かない。だから、なぜ破滅への道が始まったのか、という肝心の問いが、宙に浮いたままになる。ここに何らかの見解を持たなければ、あの戦争は永遠に指導者の「不合理な決断」か日本社会の「気の迷い」で片づいてしまう。

筆者の見方はこうだ。破滅は、あの開戦前夜に始まったのではない。もっと前に、いくつかの大きな節目があった。そのそれぞれで、日本は戦略的な悪手を指した。手が進むごとに、選べる道はさらに減っていく。1941年には、対米開戦という選択肢しか残っていなかった。いや、正確には、もう一つだけ道はあった。中国からの全面撤退である。だが当時の指導部には、それを口にすることすら、もはや不可能だった。

第一の節目は、1905年。日露戦争の講和を仲介したのはアメリカだった。その直後、鉄道王ハリマンが、満鉄の日米共同経営を持ちかけてくる。勝ったばかりの新興国日本が、太平洋の対岸の大国を味方に引き込む、またとない好機だ。桂首相は一度うなずいた。ところが講和交渉から帰国した小村外相が覆した。筋は通っていた。清国の同意、鉄道の収益、血の代償。だが、いったん交わした約束を乱暴に反故にする、その無礼なプロセスだけが残った。アメリカの潜在的な猜疑心に、本物の小さな火がついた。火は小さかったかもしれない。しかし、消えなかった。

第二の節目は、1937年。盧溝橋の意図せぬ小さないざこざだ。満州事変とは違い、これは謀略ですらない。偶発の火花である。問題は、それを止められなかったことにある。現地は停戦したのに、中央が派兵決定をして戦火が拡大することになった。参謀本部の不拡大方針は、現場と拡大派に飲み込まれた。統制の、完全な失敗。そして気づけば、米英だけでなく、ソ連も、当時はまだ中国の後見国だったドイツすらも、日本の反対側に並んでいた。ひとつの戦争で、列強のほぼ全てを敵に回す。世界史でも珍しい芸当だった。

第三の節目は、1940年の三国同盟。ここで日本は、海運と資源を握る英米を敵に回した。しかも見返りは薄い。同盟相手は、遠い太平洋では一指も貸せない大陸の国である。抑止のつもりだった。だが実際には真逆に働いた。ドイツと組んだこと自体が、イギリスがアメリカを大戦へ引きずり込むための、実に都合のよい口実になった。竦ませるはずの一手が、火に油を注いだ。

三つの悪手。それが折り重なって、退路は塞がれた。しかも、外からではなく、内側から。映画が描かない「客観的に追い込まれた構図」とは、これだ。断っておくが、当時の指導者を後知恵で断罪したいのではない。百年以上前、情報の量も速度も、今とは比べものにならない。不十分な情報や知識のなか、生き残るための決断をしたことを、責めることはできない。ただ、公開された史料を得た今、何が悪手だったかを見極めることには、意味がある。そこから、今、何を学べるか。それは常に問うて良いはずだ。

たとえば、先日のプーチン氏の択捉訪問。日本政府は強く抗議した。西側の一員として、他国と足並みをそろえ、経済制裁に加わる立場もあろう。北方領土問題も日本にはある。それも分かる。だが日本には、すぐ近くに住む隣国としての立場もあるはずだ。ただ抗議するだけでいいのか。むしろ、プーチン氏と言葉を交わせるチャネルを、一本持っておく。そういう選択肢を、なぜ最初から手放すのか。百年前、日本は「戦利品を守る」という反射行動で、対米の扉を自ら閉めた。いま、「西側の作法」という反射行動で、対露の扉を閉めてはいないか。友を作ることと、話す窓口を残すこと。逆を向いているように見えて、根は同じだ。自分の選択肢を自分で狭めない。反射行動ではなく、利害で相手を測る。的確な世界観とは、敵と味方をあらかじめ決めつけないことでもあるだろう。百年前に学ぶとすれば、まず、そこからだ。

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