同意なき正義 ――米国による ICC制裁と日本の距離感

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米国が国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長に制裁を科した。高市首相は「大変残念」と述べ、「日本の立場と相いれない」として支援の継続を表明した。所長を「守らなければならない」とも言った。ただ、では米国にどう働きかけるのか、その具体には触れなかった。

反応は割れた。「弱腰だ」という声がある。なぜここまで米国の顔色をうかがうのか、と。一方で、同盟を預かる首相が、制裁を打ったばかりの米国に正面から噛みつく愚は避けるべきだ、という理屈も立つ。言葉で残念を重ね、支援は静かに続ける。それが「同盟管理の作法」という意見だ。

どちらにも一理ある。だが、その手前で引っかかることがあった。守るべきICCとは、そもそも筋を通すに値する制度なのか。正直に言えば、私は、この裁判所に据わりの悪いものを以前から感じてきた。賛否のどちらに乗るにせよ、まずそこを確かめたい。そこで少し調べた。以下は、その覚え書きである。

二つの「ハーグの裁判所」

まず、ここが世間ではよく混ざる。ハーグには裁判所が二つある。国際司法裁判所(ICJ)と、国際刑事裁判所(ICC)。名前も所在地も似ていて、報道もめったに区別を教えてくれない。だが、両者は全くの別物だ。

ICJは国連の主要機関の一つである。国連憲章に組み込まれ、裁くのは「国家と国家」の争いだ。個人は裁かない。判事は15人。職員はおよそ123人。年間予算は3,300万ドルほどで、財源は国連の通常予算、つまり全193加盟国が分担する。判決の履行は、最終的には安保理が担保する。

一方、ICCは、国連機関ではない。ローマ規程という一本の条約でできた、独立の機関だ。裁くのは「個人」で、対象は集団殺害、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪の四つ。判事は18人。職員はおよそ900人。予算は年およそ1億9,500万ドル。財源は締約国125か国の分担金だけである。自前の警察も執行力もなく、逮捕は各国の協力頼みだ。

数字を並べると、面白いことに気づく。由緒ある「世界法廷」たるICJのほうが、はるかに小さい。職員でおよそ七分の一、予算でおよそ六分の一。格の差ではない。仕事の中身の差だ。ICJは持ち込まれた法律論を書面と弁論で裁く。ICCは各国の現場に踏み込み、証拠を集め、証人を守り、多言語で裁判を回す。刑事捜査という営みは、桁違いに人と金を食う。数字は、二つの裁判所が実際に何をしているかをそのまま映している。

もう一つ、財源に目をやると合点がいく。ICJは、国連全加盟国が支え、その分担は米国が20%、中国が15%を負う。国家を裁く法廷には、大国も金を出しているのだ。ところがICCには、締約国だけが払い、米・中・露は一円も出していない。国家を裁く法廷は皆で支え、自国民を裁きうる刑事法廷には金も加盟も与えない。

なぜ「罰」が効かない時代なのか

「そもそも論」から入りたい。戦争に法で裁ける「罪」があるのか、という問いである。

第一次大戦の前なら、話は分かりやすかった。戦うのは軍隊同士。責任を負うのは君主か政府。どこかで和議を結び、賠償で帳尻を合わせ、手打ちにできた。政治の延長としての限定的戦争だ。

だが第一次大戦で姿を現した「総力戦」という新しいかたちの戦争が、その構図を溶かした。国民全体が生産し、支持し、動員される。社会まるごとが兵器になる。そうなると、罰すべき相手が定まらない。個人に絞れば「一部の悪者の犯罪だった」という嘘になる。国家に広げれば、民衆全体への集団懲罰になり、次の戦争の火種を播く。第一次大戦の後始末がまさにそれで、ヴェルサイユ条約はドイツを国家として断罪し、その屈辱がナチスを育てたと言われる。どちらに転んでも、うまくいかない。罰という行為が前提にしている「特定できる有責の主体」を、総力戦という新しいかたちが消してしまったからだ。

そして今は、物理的な戦争に経済戦争が加わる。制裁は人を直接殴らないが、水・食料をはじめとする生活必需品の欠乏を通じて確かに人を苦しめる。他国民に不利益を課す国家政策に、法の網はほとんどかかっていない。個人責任も国家犯罪も、ここには届かない。この百年あまり、我々はそういう時代を生きてきた。そして当分、続くのだろう。

個人を裁くという発想の来歴

ではICCが個人を裁くのは、どこから来たのか。ニュルンベルクと東京の軍事裁判である。

ニュルンベルク判決に、有名な一節がある。「国際法上の罪は抽象的な実体ではなく人間が犯すのであり、その人間を罰することでしか法は担保されない。」この「個人の刑事責任」という原理を、ICCはまるごと受け継いだ。東條らに問われた「平和に対する罪」は、ICCが2018年に発動させた「侵略犯罪」の直系の祖先にあたる。だから今のICCは、これら二つの軍事法廷の延長線上にある。

なぜ国家ではなく個人だったのか。ここに、東京裁判が敷いた構図の秘密がある。指導者個人に罪を絞れば、国民は「悪者に乗せられた存在」として、復興と和解に向かえる。ヴェルサイユの失敗を繰り返さないための設計だった。個人責任には、皮肉にも「民衆を免責する装置」という顔がある。

もっとも、ここには引っかかりが残る。ヒトラーも東條も、相応の国民的支持があったから権力を振るえた。罪を個人だけに回すのは、どこか無理がある。哲学者ヤスパースは、罪を複数の層に分けた。法廷が裁く刑事の罪と、国民が負う政治・道徳の罪は、別の平面にある、と。裁判は個人の罪を切り出すが、それで民衆が無罪になるわけではない。民衆の罪は、罰ではなく政治で引き受けるべきもの、というだけだ。この腑分けは、日本にもそのまま当てはまる。東京裁判の法的根拠がいかに怪しくとも、国家としての日本が負う責任は、別の層に確かにある。ここは、目を逸らさずに握っておきたい。

そのうえで、勝者の裁きという影も見ておく。東京裁判は、勝者が敗者を、後から作った罪で裁いた。「お前もやったではないか」という抗弁は、原則として封じられた。都市への戦略爆撃はどうか。ロンドン空襲も、ドレスデンも、東京大空襲も、そして広島・長崎も、この件で法廷に立った者はいない。当時の空戦法規が未成熟だったという事情もあるが、裁く側の同種の残虐行為が問われない構造は、やはり露骨だった。インドのパール判事がただ一人、全面的な反対意見でそこを突いたのは、感情ではなく手続きの筋としてだった。

法の対称性が壊れている

ここまでは前置きだ。筆者が一番引っかかるのは、次の点である。

ICCの非加盟国には、大国の名が並ぶ。米国、中国、ロシア、インド。しかも人口で見れば、加盟国は少数派だ。世界人口の上位5か国はすべて非加盟で、それだけで人類のほぼ半分。非加盟国が過半を占め、加盟125か国が代表するのは、せいぜい世界人口の三分の一ほどにすぎない。

これは、単に「不完全」なのではない。法が備えるべき対称性が壊れているのだ。ICCの管轄は、非加盟国の国民には、原則として届かない。届くのは、締約国の領域で罪が起きた場合だけ。安保理付託という細い抜け道はあるが、そこは安保理を構成する5大国が拒否権で塞げる。つまり、法が万人に等しくは適用されない。もし仮に、国内の刑法が、ある層には及び別の層には及ばないなら、我々はそれを法とは呼ばない。近代の法廷が法廷たりうるのは、権力を分け、互いに牽制させ、誰にも等しく適用するからだ。ICCは、その核心的な仕組みを制度設計から欠いている。

実例を二つ。イスラエルとガザ。ここは私の当初の印象が逆だった。ICCはハマスの10月7日を見逃してなどいない。検察官はハマス指導部にも逮捕状を請求し、同じ日にネタニヤフ首相とガラント前国防相にも令状を出した。加害と被害の双方を俎上に載せたのだ。そして、まさにその一手――米国の同盟国の現職首相を訴追したこと――が、今回の制裁の引き金になった。ICCは「都合よく」動いたのではない。自分に最も都合の悪い相手にも手を出し、その報復も受けている。

一方、ウクライナ。ここは印象どおりだった。ICCの捜査は建前上、全当事者を対象にする。だが実際に出た逮捕状六件は、全員ロシア人。東部で親ロシア系住民に向けられたウクライナ側の武力行使には、令状が飛んでいない。管轄は両側にかかるのに、剣は片側にしか振られない。

政治的なニオイはする。だが成分は、単なる「強者の手先」ではない。イスラエルの件がそれを否定している。より正確には、ICCは複数の力の交差点に挟まれている。届く相手には動き、最強の相手には構造的に届かず、届こうとすれば報復される。手先というより、板挟みだ。赤根所長自身がその縮図だ。プーチン氏訴追ゆえにロシアから指名手配され、イスラエルや米関係者に及ぶ管轄ゆえに米国から制裁された。非加盟の大国の二つから、正反対の方向で標的にされた。一人の判事の身に、制度の軋みが凝縮している。

ICCの出自も見ておくとよくわかる。ICCを押し上げたのは大国ではない。カナダやオランダ、北欧など、60を超える中小国の有志グループと、市民社会のNGO連合だった。冷戦後、リベラルな国際主義が満ち潮だった1990年代の産物である。米国は当初から反対で、1998年の採決では反対票を投じ、2002年には署名を撤回した。今回の制裁は、突発事ではない。四半世紀にわたる一貫した拒絶の、最新の一発にすぎない。国際的制度は、力の配置を映す鏡だ。世界の力が分散すれば、単極の束の間に建てられた制度は足場を失う。ICCの苦境は、揺らぐ国際秩序の一つの症状なのだ。

日本はどこに立つか

最後に、日本からの視点で締めたい。

まず、日本人への刷り込みを一つ外したい。「国際機関」と聞くと、我々はどこか、自分たちより上位の、お上のようなものを思い浮かべる。戦後日本は、軍国主義の過去を洗い流す器として「国際」を頭上に戴いてきた。国連中心主義は、外交の柱である以上に、ほとんど信仰に近かった。だが、見てきたとおり、ICCは覇権国が上から授けた秩序ではない。中小国と市民社会が押し上げた、脆く、偏った、未完の企てだ。敬意を払う価値はある。しかし、お上ではない。ここは冷静でありたい。

ただし、この刷り込みを外すなら、両方向に外すべきだ。「国際は上」という反射的受け入れ姿勢を止めるのと同時に、「国際はすべて日本に押しつけられた茶番だ」という、裏返しの反射反応からも脱するべきだ。後者もまた、東京裁判が植えた条件反射の一種だからだ。被害者感情に逃げ込めば、複眼的視点を失ってしまう。

そのうえで、今回の一件に戻る。皮肉なことに、米国が制裁で突きつけている理屈――「同意していない国の国民に、この裁判所の管轄は及ばない」――は、筆者がこの裁判所に抱いてきた違和感と、根っこで通じている。国際法の正当性は、どこまで国家の同意に依るのか。筆者にとっての知的な据わりの悪さと、覇権国の力の論理が、妙なところで響き合う。愉快ではない。だが、そこは正直に認めておく。

だから、率直に書く。いまの日米関係、そして神経を尖らせる米国側の状況を思えば、赤根氏擁護の声を大きく張り上げる価値は、あまりなさそうだ。誤解のないように書く。赤根氏に非があるとか、制裁が正当だとか、そういう話ではない。順序と軽重の問題である。ICCは、日本が同盟に水を差してまで立てこもるべき砦ではない。制度としての正当性が、これだけ揺れているのだから。首相の「大変残念」と、静かな支援の継続。声を枯らして庇うのでも、手のひらを返して切り捨てるのでもない、あの温度は、たぶん適温だ。

正義は貫かれるべきだ、と所長は言った。志は尊い。だが志だけでは、逮捕状一枚も執行できない。我々にできるのは、上に戴くのでも、下に見るのでもなく、制度をあるがままの大きさで見ることだ。そのうえで、日本の立ち位置を、自分の頭で決める。今回の据わりの悪さは、たぶん、そのための良い練習問題だった。

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