あるイスラエル観が書き換わるまで

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2014年、筆者はイスラエルを一週間旅した。荒れ地に広がる農地、テルアビブの近代的な街並み、世界に冠たる技術。小さな国が、よくぞここまで。素直にそう感心した。この印象が、筆者のイスラエル観の土台だった。

十年あまりが過ぎ、昨今の出来事を見るにつけ、その土台が揺れている。また、アメリカの建国・西部開拓(西進)とイスラエル建国・拡大の歴史には、かなり共通点があることも気になった。モヤモヤを解消しようと、少々調べてみた。

アメリカとの比較を口にしたのはイスラエルを擁護する側だった

イスラエルの歴史家ベニー・モリスは、1948年の難民問題を実証的に明らかにした第一人者である。2004年、ハアレツ紙のインタビューで、当時の民族浄化を非難しないのかと問われ、こう答えた。偉大なアメリカの民主主義も、インディアンの絶滅なしには生まれなかった、と[1]。

つまりモリスは、アメリカの西進とイスラエル建国が同じパターンだと認めたうえで、だから許されると論じた。比較を持ち込んだのは、批判ではなく擁護する側だった。そして、現代の感覚としては、据わりが悪い。

イスラエル建国は「始まりにすぎない」

拡大への志向は、建国前からあった。1937年、英国がパレスチナ分割案を示したとき、後の初代首相ベングリオンは、分割はほんの始まりにすぎないと息子への手紙に記した[2]。本当に望むのは、土地が一つにまとまってユダヤのものになることだ、と。

決定的なのは、1948年の独立宣言である。そこには国境が書かれていない。明記すべきだという意見に、ベングリオンは反対した。アメリカも独立宣言で国境を定めなかった、拡大の扉を開けておくためだ、と[3]。建国の父自身が、アメリカを手本に国境のない国を選んだのだ。

イスラエルが拡大を抑えていた20年間

もっとも、1949年から67年まで、イスラエルはグリーンライン(国連決議時点での国境)の内にとどまった。パレスチナ人と共存するという理念からではない。抑えていたのだ。

1948年戦争の終盤、司令官アロンがヨルダン川までの西岸征服を求めたとき、ベングリオンは拒んだ。領土を広げてもアラブ人が増えるだけだ、という人口への警戒からだった[4]。

一方、その20年で、移民が殺到した。1948年から51年の間だけで、ユダヤ人人口は倍増し、約60万人が流れ込んだ[5]。彼らを住まわせるため、難民の帰還を防ぎつつ、建国後三年で400以上の無人のパレスチナの村が破壊され、1950年の法で土地が没収された[5]。土地が足りず外へ出たのではない。内側の土地を、そうやって固めたのだ。2014年に筆者が見た「荒れ地に咲いた農業」の一部は、この上にある。

イスラエル拡大の扉が開く

扉を開けたのは、1967年の第三次中東戦争だった。姿勢は二段階で変わる。

第一は労働党下の入植である。安全保障の名のもと、かつて西岸征服を阻まれたアロンが、今度は閣僚としてヨルダン渓谷に入植地を並べる計画を起案した。党内の議論は、入植するか否かではなく、どこに入植するかだった。政権を失う1977年までに、労働党は80近い入植地を築いた[6]。そして第二は、リクードと宗教右派による国家事業化である。アロン計画がアラブ人の少ない地域を選んだのに対し、グシュ・エムニームはメシア的な使命として、アラブ人居住の中心地に入り込んだ[6]。

空けられた土地

アメリカの西進に目を移す。先住民の追い出しは、土地の価値の高い順に進んだ。1830年の強制移住法が主に狙ったのは、南東部の肥沃な綿花地帯にいた諸部族である。1838年の「涙の道」では、移送された約16,000人のうち、およそ4,000人が死んだ[7]。追い出すこと自体が、多くの死を生んだ。

ここで一つ、「人のまばらな荒野」という神話を外しておきたい。1800年、現在のアメリカ本土にあたる地域の先住民は約60万人まで減っていた[8]。だが、これは「もともと」ではない。入植者たちとの接触前には数百万人がいたとされ、落ち込みの大半はヨーロッパから持ち込まれた疫病によるものだった[8]。初期の入植者が見た「空いた土地」の多くは、住民が死に絶えた村の跡だった。人が少なかったのではない。少なくされた後だったのだ。そして西進の世紀に、残りの六割が消えた。約60万人は、1900年には約24万人になった[8]。

完了した西進、終わらない拡大

アメリカとイスラエルの歴史の間に二つの決定的違いがある。

一つは人口である。アメリカの西進は、すでに少数派になった先住民を相手に始まった。1800年、先住民60万人に対し、入植者側は500万人を超えていた[8]。だから西進は「完了」し、過去の物語になった。イスラエルの建国は、多数派のアラブ人を相手に始まった。1946年、アラブ人約120万人に対し、ユダヤ人は約60万人[5]。だから追い出しが必要になり、それが止まった後も人口は拮抗したままだ。今日、川と海の間に住む両者の数は、ほぼ等しい。追い出しが完了しなかったから、抵抗活動も終わらない。

もう一つは時代である。アメリカの西進は、それを禁じる国際規範ができる前に終わった。「フロンティアの消滅」が論じられたのは1893年。武力による領土取得を認めない国連憲章も、占領地への入植を禁じるジュネーブ第4条約も、半世紀あまり後に生まれた。

イスラエルの拡大は、その国際規範が定まった後に進んでいる。1967年の決議242は、まさにあの第三次中東戦争について、戦争による領土取得を認めないと明記した。それでも入植は続いた。1993年のオスロ合意の時点で約11万人だった西岸の入植者は、2023年には約50万人へと四倍以上に増えた[9]。極右政党が入閣した後の2023年には、未承認の入植拠点が26か所つくられ、統計開始以来最多となった[10]。

アメリカは、規範ができる前に、誰にも見られずに西進を終えた。イスラエルは、国際規範が出そろった後に、世界に見られながら拡大を続けている。イスラエルが国際社会でここまで孤立した理由の一つも、たぶんここにあるのだろう。

冒頭のモリスは、アメリカとイスラエルに同じパターンを認めたうえで、だから許されると言った。筆者は、そうは思えない。許すか許さないかの前に、まず正しく見たい。

2014年に筆者が見た風景は、嘘ではなかった。荒れ地は、確かに緑になっていた。ただ筆者は、その半分しか見えていなかった。緑になった土地が、もとは誰のものだったのか。それを問わずにいられた時代のほうが、もう終わりに近いような気がする。

主な出典

[1] Logos Journal(ハアレツ2004年1月のインタビュー転載) Survival Of The Fittest? An Interview With Benny Morris(原文:Even the great American democracy could not have been created without the annihilation of the Indians)

[2] Wikipedia 1937 Ben-Gurion letter、手紙英訳は Jewish Voice for Peace Ben Gurion: letter to his son

[3] Jewish Standard The legal significance of Israel’s Declaration of Independence

[4] Reuben’s Salsa(ベニー・モリスの記述を引用) Misquoting History、OUP Blog The Partition of Palestine

[5] パレスチナ問題百科 Reverberations of the Palestine War、Middle East Eye Nakba: Why the Zionists expelled Palestine’s Arab population

[6] MIT Press Israeli Settlement Activity in the West Bank and Gaza: A Brief History、My Jewish Learning The Territories After the Six-Day War

[7] 米国立公園局 The Trail of Tears、Smithsonian Forced Cherokee Removal

[8] 全米経済研究所 American Indian Mortality in the Late Nineteenth Century、Wikipedia Historical racial and ethnic demographics of the United States

[9] Peace Now 30 Years After Oslo

[10] Malay Mail(AFP配信) Israel NGO: Record number of West Bank outposts set up in 2023

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