新たな「危機の20年」:聖像を汚し、西側秩序を自ら放棄する覇権国アメリカ

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「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」——。今、私たちは100年前と似通った、新たな「危機の20年」のただ中にあるのではないか。

1919年、ヴェルサイユの地で「二度と戦争を繰り返さない」と人々は誓った。歴史家E.H.カーは、そこから第2次大戦が始まる1939年に至る20年間を「理想が現実に敗北するプロセス」として描き出した。当時の覇権国イギリスには秩序を維持する「能力」がなく、新興のアメリカにはその「意思」がなかった。欧州のこうした「力の真空」は、ナチスの暴走を許した。列強の支配が揺らいだ東アジアにも「真空」があった。ワシントン体制という「強者の論理」に反発した日本が、国家生存を賭けた焦燥から、現状打破へと突き進んだ。「力の真空」こそが、世界を破局へ導いた真因であった。

そして現在、私たちは再び、既存の国際秩序が崩壊していく旋律を聴いている。

戦後80年、世界は道徳、理念、そしてルールに基づく国際秩序を形作ってきた。しかし、その間に「世界の工場」として台頭した中国は、経済力と外交手段を駆使して世界に広く根を張った。この事実に直面したアメリカは、誰も想像できなかったような変貌を遂げている。自ら主導してきた道徳やルールの世界は、中国ばかりを利する足場になったと認識し、自らがその秩序を解体することで中国に対抗しようとしているのだ。それは、100年前の「能力と意思の乖離」よりもさらに根深い、覇権国自身による「秩序の放棄」である。

2025年の国家安全保障戦略(NSS)が説く「他国の伝統への不干渉」は、一見寛容だが、その実体は道徳的責任を脱ぎ捨てた徹底的な功利主義に他ならない。トランプ大統領の「敵を石器時代に戻すまで叩き、その後は去る」というイランに向けた言葉は、かつての自由、民主主義といった装飾を一切排除した、剥き出しの力による「費用対効果」の論理である。

この剥き出しのエゴは、トランプ関税の導入やイランでの軍事行動、さらには平和を説く教皇との公然の反目となって現れている。その結果、アメリカは伝統的な同盟国から深い不信を買い、自ら標榜するモンロー主義(孤立主義)を超えた、真の国際的「孤立」へと突き進んでいる。象徴的なのは、トランプが自身を救世主や病を癒やす「医者」のように描いたAI画像を投稿した事件だ。既存のキリスト教的道徳や教会権威を軽視し、自らを神格化するその視線は、世界秩序にはもはや向いていない。それはただ、国内の選挙と支持層の熱狂だけを繋ぎ止めるための、空虚な政治的パフォーマンスである。

一方、アメリカに次ぐ能力を持つはずの中国もまた、世界を導く「意思」を欠いている。いや、「意思」はあるかもしれないが、理念がないのだ。中国が掲げるスローガンが世界に響かないのは、彼らが西側の作った秩序にタダ乗りして肥大化したに過ぎず、その根底にあった「共産主義」理想を経済優先の過程で自ら捨て去ってしまったからだ。理念なき大国は、世界を納得させる正義を語れない。もはや西側にも、中国にも、共有されるべき道徳・価値基準は存在しない。あるのは、「割に合うか、否か」という損得計算だけだ。

現在の中東紛争がどのような結末を迎えようとも、それは「正義の勝利」などではない。秩序の維持が割に合わないと判断されれば、弱者を平然と切り捨てる「秩序の崩壊コスト」の押し付け合いである。この真空を埋めようとする中露もまた、自らのエゴを最大化するための閉鎖的なブロック秩序を求めているに過ぎない。

100年前、人類はまだ「理想」を信じようとしていた。しかし、現代の「新しい危機の20年」には、そのわずかな熱量すら感じられない。自らルールを破壊し、「医者」を自称して世界を切り刻む覇権国アメリカ。また、そうした行為で自らの力をますます低下させつつある。そして、千万人単位の犠牲を出しながら追った思想を捨て、計算ずくで立ち回る中国。畏怖すべき神も失って久しい世界で、私たちは剥き出しの国家エゴが衝突する修羅の道へと足を踏入れている。これがIan Bremmer氏がいうG-Zero 無極状態なのだろう。

1919年に始まった危機の旋律は、100年を経て、より残酷で計算高い、絶望的な不協和音となって響き渡っている。この力の真空を埋めるのは、話し合いによる新たな秩序か、それとも破滅的な均衡か。われわれの歴史の教訓によれば、秩序は力の真空を嫌う、そして、その代償は常に最も弱い者たちの血で支払われてきたということだ。

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