歴史には、表の顔と裏の顔がある。
日中戦争(1937〜1945年)において、毛沢東の共産党軍は表向き、蒋介石の国民党軍と「第二次国共合作」を結び日本と戦っていた。しかし裏では、上海の日本特務機関(岩井公館)と共産党スパイ・潘漢年が秘密接触を重ね、蒋介石軍の作戦情報を日本側に横流しし、日本は見返りに資金と黙認を提供していた。前線では、日本軍と共産党軍の間に「暗黙の休戦」が成立していた。
毛沢東の戦略は明快だった。「七分発展、二分応付、一分抗日」(七割は自らの発展に、二割は(抗日の)対応・いなしに、一割だけを抗日に充てよ)——日本軍に蒋介石を叩かせ、自分たちは力を温存して戦後に備える。その読みは見事に的中し、1949年12月、蒋介石は台湾へ敗走した。
戦後、訪中した日本の政治家たちに、毛沢東はこう語ったとされる。「日本軍が中国の半分を占領し蒋介石を痛めつけてくれたからこそ、我々は政権を取れた。感謝したいくらいだ」と。これは外交辞令でも謙遜でもない。正直なホンネだったのだろう。
敗戦時、その日本の国土は焦土と化していた。
正式な戦争賠償は行われなかった。1952年の日華平和条約で中華民国(台湾)が、1972年の日中共同声明で中華人民共和国が、それぞれ賠償請求権を放棄した。放棄の理由は道義ではなく政治的な損得計算だった。蒋介石は内戦を控え日本の支持が必要だったし、毛沢東は「日本人民は貧しい」という建前を国内向けに使った。
だが日本は、賠償の代わりに別の形で対応した。
1979年、日中平和友好条約の翌年、日本は中国へのODA(政府開発援助)を開始した。大平正芳首相はその意図を、娘婿にこう語ったとされる。「対中ODAには戦争の償いという意味合いがある。中国が賠償を放棄した代わりに、日本が経済援助をするものだ。」
それから42年間。円借款を中心に累計約3兆6600億円が中国に拠出された。鉄道電化の26%、大型港湾岸壁の11%、北京の地下鉄——改革開放期の中国インフラを、日本のカネが支えた。先進国から中国への援助総額のうち日本が常時半分以上を占め、中国にとって圧倒的な最大の援助国であり続けた。その事実を、中国政府は自国民にほとんど伝えなかった。
援助が終わったのは2022年。中国がGDPで日本を抜いてから12年後のことだ。
そして今年、2026年5月。
北京で行われた中露首脳会談の共同声明に、こんな一節が入った。日本の防衛力強化を「軍国主義の復活」と名指しで非難する文言だ。習近平とプーチンが並んで署名した。
この言葉には来歴がある。
1930年代、スターリンとコミンテルンは「人民戦線戦術」のもと、日本を「封建的軍国主義」と定義する国際的なプロパガンダを展開した。「日本=悪の軍国主義」というナラティブの台本を書いたのはモスクワだ。米英はそのロジックに乗り対日戦争の大義名分として活用した。戦後のGHQも同じ構図で日本人の自己認識を見事に塗り替えた。
佐藤優氏が指摘するように、この台本は一度も廃棄されていない。90年が経った今も、習近平とプーチンが同じセリフを読み上げる。
中国にとってこのナラティブは二重に便利だ。「戦勝国としての正当性」を国内に示しながら「日米同盟への楔」として対外的に機能する。ロシアとの強固な同盟を固め、対米では当面の安定的関係を図る——その地政学的文脈の中で、日本は格好の素材として繰り返し登場する。
問題は、日本がその構図にほぼ無抵抗であることだ。
42年間で3兆円超を注ぎ中国の近代化を支え、しかし感謝されず、今や「軍国主義国家」と呼ばれる。戦時中は毛沢東に利用され、戦後は援助国として機能し、現在は認知戦の格好の標的にされている。
軍事的な対立より以前に、日本は認知戦で大きく負けている。原因は単純だ。自分たちの歴史を自らの言葉で総括することを、80年以上にわたってやってこなかった。
スターリンが書いた台本は、日本人が自分の台本を持たない限り書き換えられることはないだろう。
