6月4日、ゼレンスキー大統領がプーチンに宛てた公開書簡を発表した。前日、ウクライナのドローンがサンクトペテルブルクの石油ターミナルを炎上させ、ロシアが世界に経済的強さを誇示しようとしたSPIEFの舞台を煙で包んだ、その翌日のことだ。

書簡は「ウクライナが優勢だ」という前提で書かれている。ロシアの損耗、国内の不満、プーチンの孤立。しかしInstitute for the Study of War (ISW)のデータを見れば、ロシアの月間占領地拡大は急減速し、4月には純損失に転じた。ドローン戦でのウクライナ側の技術的な盛り返しも本物だ。
だが2022年以来の累積を直視すれば、ウクライナ領土の約20%はいまだロシアの支配下にある。「下げ止まり」を「逆転」と見せるのが、この書簡の情報戦としての狙いなのだろう。それでも行間には別のメッセージがにじみ出ている。現在の前線を停戦ラインとする交渉の提案、「冬を迎える前に戦争を終わらせよ」というブダノフの言葉。書簡の真の目的は、「交渉してくれ」というギリギリの訴えだ。
ゼレンスキーを責めるのは、しかし、簡単すぎる。
2022年3月、イスタンブールで停戦交渉は合意寸前まで進んでいた。ウクライナの中立化と引き換えに、ロシアの撤退を求める枠組みだ。それを止めたのは、当時のジョンソン英首相のキーウ訪問だったとされる。「戦え、西側は支援する」。その言葉で、長期戦への扉が開いた。
欧州は、NATO加盟という甘い期待をウクライナに持たせ続けた。メルケル前首相は後に、ミンスク合意はウクライナが軍備を整えるための時間稼ぎだったと認めた。ロシア産ガスを享受していたことは棚に上げ、ロシアを悪魔化し、NATOの結束を演出しながら、戦費の大半をアメリカに負担させた。「正義」を叫ぶ者たちの実像だ。
正義は、一方にだけあるわけではない。ドンバスのロシア系住民が長年にわたって受けてきた文化的・政治的圧力があった。ミンスク合意が生まれた背景には、そうした現実があった。国際法を盾にロシアを断罪することは容易い。しかし、その守護者たちが合意を最初から守る気がなかったとすれば、「悪」の座はそう単純には決まらないだろう。(ウクライナ情勢、解決の鍵を握る”ミンスク合意”)
ロシアの条件は一貫している。4州の割譲、NATO永久非加盟、非軍事化、ゼレンスキーの正統性への疑義。交渉が遅れるほど、その要求項目は増えていく。ISWが分析するロシアの長期作戦目標には、ザポリージャを越えてオデッサ州までの制圧が含まれている。オデッサを失うことは、ウクライナの黒海アクセスを完全に断つことを意味する。内陸に封じ込められたウクライナが経済復興するには、ハードルが一層高くなることだろう。
歴史は繰り返す。大東亜戦争末期の日本は、1944年以降に敗色が明らかになった後も戦い続け、沖縄・広島・長崎の惨禍を招いた。ナチス・ドイツも、ノルマンディー後の最後の数か月に最大の死者を出した。
独立系機関の推計では、ロシア・ウクライナの開戦以来の双方合計死傷者はすでに百万人を優に超える。ロシア側の損耗がウクライナを大きく上回るとされる。それには理由がある。攻める側が払う代償は、守る側より常に大きい。だが、その構図は、攻守が入れ替われば、当然変わる。
仮にウクライナがドンバスの奪還を目指して攻勢に出れば、要塞化されたロシア支配地域に突入することになり、今度はウクライナが「攻める側」の代償を払う番だ。停戦の決断が遅れるほど死者は増え、しかも奪還できる領土は減っていく。「最後まで戦う」という選択が、最も多くの命を奪う。それが歴史の教訓だ。
書簡へのロシアの反応は冷淡だった。ペスコフは「会いたければモスクワに来ればいい」と一蹴し、プーチンはゼレンスキーの正統性に疑問を呈した。今、ウクライナがなすべきことは明確だ。大統領選挙を実施し、選ばれた指導者のもとで交渉に臨む。NATO永久非加盟と軍事的中立を受け入れる。欧州とNATOは、その決断を支持すべきだ。ロシアが求める最低限の条件を飲まない限り、交渉は始まらない。そしてその条件は、ウクライナの存在を否定するものではない。主権を持ち、欧州と経済的に結びついた中立国家として生きる道は、しっかり残されている。
筆者が前稿で「夢遊病者」と呼んだ欧州の指導者たちが目を覚まし、和平を邪魔しないことを祈っている。そして、目を覚ました先に必要なのは、自分たちが何をしてきたかに対する、誠実な反省だ。ウクライナを「防波堤」として使い、NATO加盟という幻想を与え、停戦の機会を潰してきた責任。その清算なしに、真の和平は来ないことだろう。
なお、イラン情勢に注力するトランプ氏の反応は、今のところ強くない。しかし、ロシア・ウクライナの和平を仲介できるのは、アメリカということになる。今後の動静を注視したい。
